古武道 その3
無想会で沖縄古武道の棒を、指導を始めていると前記しました。
その指導のためにも、自分がシャカリキで棒を練習しないといけません。
怠け者のわたしでも、やっぱり頑張るときは頑張らないといけませんので、今は一日中、「棒づけ」の生活です。
この棒の形もじつは以前学んだものに数々の疑問があり、この数年の間は自分でも納得いかない部分を保留しながら自分だけで練習していましたが、ナイファンチの形をある程度習得したことで、形全体が明確に見えることになり疑問が氷解しまた。
少なくとも琉球王国の士族の武術であった首里の手ならば、素手の形であろうが古武道の形であろうが、共通する基本事項があります。それは形の構成、機能、様式などの全てに言えます。
そして大言壮語させてもらえば、わたしはナイファンチによって首里手の形の基本事項を少しながらは理解したのではないかな? と思っています(まぁこのように記すと良識のある人間は笑うでしょうし、書いているわたし自身も笑っているのですが)。
なぜならわたしは当時の沖縄でも稀に幼少の頃から空手を志したために、一、二段階(約十ー二十年)上の世代に口碑として伝わっていた「首里は***から」「首里手は***だ」という、身体操作における首里手を統括する言葉を幸いなことに幼いながら伝授されていたからです(当時は、全然その意味が分かってなかったのですが)。
さらにこれは当時の沖縄で教育を受けた(すなわち西洋身体文化の影響を受けた)人間たちだけでは無く、武術としての空手に固守した人間たちのリアル・タイムの言葉として聞いています(詳しくは「無想会とは」を参照してください)。
彼らから伝授された技術や言葉を繰り返し吟味し、人間が伝承する過程、他人に教授する際に一番効率の良い体系とは一体どういうものか? ということを理解した場合に自ずから人類共通な理論が導きだされます。それにそってナイファンチの心身理論・操作で素手の形を徹底的に鍛錬して検証してみると、形の全貌がハッキリと見えてくるのです。しかしその際に重要なのは、東洋心身文化とは何か?ということを理解しておかなければ、現在のスポーツ化した空手の形と同じ轍を踏むことになりますので注意しなければなりません。
さて、古武道の形もナイファンチとまったく同じでなければなりません。人が最高の心身思想を、効率よく伝えようとするならば、自ずから体系立った方法で次の世代に伝授するはずです。その伝授方法の基本さえ押さえておけば、自然にすべてが理解できてきます。
ただ明治以後の日本は、近代化という名目でその伝授方法の基本を完全に喪失してしまいました。だから現代行なわれている空手の形は、使えないのです。これは身体操作などという一つの分野だけでは無く、形における業・技の部分でも同じです。これは自分がナイファンチを、トコトンやり込んだから分かったことです。現在行なわれているナイファンチのみならず、他の平安、五十四歩などの首里手系統の形すべてに関して同じことが言えると思います。
沖縄空手道「無想会」という組織に所属し、かつ自分について来てくれる生徒に対して、こう言うことは非常に失礼であるのは重々承知しています。
しかしわたし個人にとって重要なのは、無想会空手云々というよりは琉球王国の士族の武術であった首里手というものが、人類の歴史上において価値のあるものであったのか? あるいは無かったのか? という事だということです。
すなわち首里の武士たちが行なっていた身体思想・操作が、世界的規模において価値あるものであったのか? それとも琉球王国の士族階級の人間たちは大いなる思い違いをして、本当は無駄、無理な身体思想・操作であったのか? ということだけなのです。
その思いに固辞して、まだまだ修行することは自分自身が常に変化することでもあります。それは指導者としてのわたしに付き従ってくれる生徒には一面では迷惑千万であり、沖縄人としてのわたし個人の矜持の問題でしかないのですが、それを失ったら「世界を相手に!」という自分の思い自体を喪失することにもなりますので、譲れない一線です。
ただ沖縄の空手の基盤とする心身思想が人類の歴史において価値の無いものであったなら、その時点で潔く空手を捨てて、この米国で一介の日系米国人としてどんな卑賤(何とも時代遅れな言葉ですが)な職業に就こうとも生きていこうという覚悟だけはありましたし、いま現在もあります。 なぜなら人の一生は価値あるものに命をささげることにこそ、その人間の生きている証があるのだという、盲信ともいえる思いがわたしの中にはあるからです。
それと同時に日本の空手を修行された人物が書かれた、「沖縄空手の形(延いては空手全体の形自体)は無価値である」との要旨の、日本の空手のみを学んだ人間に対する自分の反論もありました。「あなたは、武術として沖縄空手の片鱗さえも見たことがないから、そのようなことがいえるのではないか?」という幼少の頃から空手に親しんだ自分は言いたかったのです(しかし個人的には後記するように、そのような段階まで修行された人間に対する尊敬はあります)。
たしかにわたしが疑問を持ち始めた当時も現在も、日本本土における大部分の空手の形は使えないでしょう。それは、沖縄で行なわれている形でも同様です。近代になって勃興してきた流会派の形は当然のごとく、大正、昭和期の教育課程に採用された空手の形も同様です。
現在おこなわれている形を使えると言っている人間は余程の天才か、東洋心身文化というものを理解していない人間だけです。そして天才でない多くの、わたしのような人間は当然のごとく形に対して懐疑的な思いを抱きます。その思いは空手に対して真摯であればあるほど、強く抱くことになります。
ですからわたし個人として「これは使えん!」として形を捨てた流派や個人、あるいは沖縄空手(果ては日本空手全般)の形に疑問を持っている人間に対して「そこまで真摯に修行したのか!」という尊敬の念はあるとしても、彼らを誹謗、否定することは出来ません。
使えない形のツジツマを合わせて自己や流派の存在価値を保持する人間や流会派などよりは、そのような人間の存在が空手の未来を語るときに価値あるものではないかと思ってしまうのです。
そして現在行なわれている素手の空手のみではなく、現段階では棒の形なども同じ状態ではないか? と修行の過程で理解できたのです
さて、現在の棒の形の練習に話しは戻りますが、その棒の間違いの部分に差し掛かると練習していた自分の身体が自然に止まってしまうのです。「ここは違う・・・?」と身体が受け付けなくなっています。それは棒を使う際の身体の動きもありますが、それ以上に形の構成伝承自体に問題があると思っています。
「ここは、後で大仰にするために動作を加えたな!」、「ここは一手が逆になってしまっている」、「ここは手が抜けてしまっている」、「この立ち方では棒は使えん」、あるいは「この伝承方法は、首里の手の思想を理解していない」などなど、首里手の基本思想・操作を理解した後で現行の棒の形を練習すると明確になってくるのです。
つづく
2010年5月8日