生徒
少し惚気させてもらいますが、わたしの生徒は非常に優秀です。
これは空手の技量を言っているのでは無く、無想会道場で若い時分に修業して、社会的に成功した人間が多数います。さらに今現在も、多くの少年・少女部と児童部の生徒の学業成績はオールAに近いです。
それも「良い子、良い子」では無く、ハチャメチャに元気な連中です。
これは、わたくしのように「先生がダメだと、生徒が発奮して頑張る」から、良い成績になるのだという、良い例だと思います。
「ネッ! わたしのような能天気でグータラ師範も、存在価値はあるのですよ」と、また馴れ馴れしい口調になります。
いままで、数え切れないほどの人間を教えてきました。
それも六歳のころから教えて、十八歳で大学入学のためにこの地を離れるまで、あるいは少年部で教えた人間が今度はその子供を児童部で教えるなど、一人の生徒(人間)と二十年以上も付き合うことになります。
そのためにわたくしのような鈍感な人間でも、一応は人を見る眼が養われます(笑ってください)。
その子の気質・才能・家庭環境、それから個人の運から見て、本人が社会に出てこの位には行くだろうと大体の予測が立つのです。たまにに自分が予測した以上に教えた子供が人間的に成長してくれ、社会的に伸びてくれるという、本当に嬉しい誤算が生れる時があります。
そんな時は、「アーッ! 間違った、間違った。オレの予測も、大したもんじゃないな!」と、心底愉快になります。
でもその中で自分が予測していた以下にしか、結果が出せていない人間も出てきます。
わたくしの生徒の中で一番人間的にも、社会的にも立派になった生徒以上に、その生徒には期待していた部分もあった時などは、胸が痛みます。
それも個人が怠けた、能力不足であったなどでは無く、不可抗力な状態だったなどの場合が多多あります。
ですからわたくしの胸の痛みとは、その個人へ対する失望とか落胆などという気持ちではまったくありません。
哀しみという言葉でしか、言い表せないものなのです。
それでも彼らは、社会的には立派な社会の一員として生活はしているのですが、中には人生の苦難続きの人間も居ます。
教える側としては、そのような生徒の存在が一番心の中での比重を占めます。本当はもう空手はやってないので実質的には、わたくしの生徒では無いのですが、彼らにとってわたくしが常に「師範」であるように、彼らはわたしの「生徒」なのです。
わたくしが常に哀しみを持って思い出すことしか得ない生徒は、数え切れないほど教えた生徒の中で、三名ほどです。
いま、その生徒の一人が人生において非常に危ない状態にあります。詳しいことは書きません。しかし、先週はこの生徒に付ききりでした。
一人の人間と向き合うことは、心身ともに疲れますし、先週からのやり残した仕事が山積みです。でも腹をくくって、この生徒の人生と向き合っていこうと思います。
2010年11月21日