2010年コラム


沖縄空手道無想会の会長である、新垣清最高師範の2010年のコラムです。
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年頭のご挨拶

 明けましておめでとうございます。
 昨年中は、色々とお世話になりました。
 本年もよろしくお願いします。

 

 2010年1月元旦



 沖縄空手道無想会

 会長・最高師範
 新垣 清
  Okinawa Karate-Do
Muso-Kai
       
沖縄空手道

無 想 会


帰国日記

  今日4月4日に、無事にユタ州に帰ってきました。
  じつは3月23日から長崎、沖縄、そして東京と回ってきました。チョッと疲れているのですが、興奮が残っているうちに書きます。

  順に親族の結婚式、新築祝い、親族会と続き、東京では「月刊・空手道」の出版社である福昌堂にお邪魔して、特集用の撮影をすると同時に「沖縄武道空手の極意・その四」の原稿と写真を直に手渡すことが出来ました。

  日ごろは温厚な人柄ですが、良い雑誌を作る為なら鬼にもなるという噂(?)の水口編集長の写真撮影での要求は厳しいものがあり、「新垣の顔が駄目なのは仕方は無いが、技術はチャンと見せないと」という訳なのでしょう。延々とひとつの技を、編集長のイメージ通りに出来るまでやり続けるという羽目になりました。

  ただ空手道という無骨な雑誌の編集長としては非常に繊細な感覚を持つ水口さんは、こちらが「ワッ!」、あるいは「ナルホド!!」と思うような斬新な視点から注文をつけてくるので非常に勉強になり、「もう勘弁してください」という言葉を飲み込みつつ頑張りました。
  突き蹴りの居付かない動きを撮ると一言でいえば簡単ですが、「ハイ、ポーズ」といういわゆる見得を切る動作では無いために、玉に良い技をカメラが捕らえても顔が歪んでいたり、目をつぶってしまっていたり、あるいは顔はマアマア(?)でも技の映りがイマイチなどと難儀ではありました。

  その後に、中村社長と編集長との楽しい飲み会があるということを唯一の希望として無事撮影を終わらせました。お酒の席は非常に楽しいものでしたが、なぜかわたしにはお酒をいただきながらもさっきの撮影の頑張りは、ニンジンを鼻先にぶら下げられた馬が一所懸命に走るというのに似ているなという感想を持ちました。

  お渡しした「沖縄武道空手の極意・その四」の原稿はじつは四年ほど前にすでに完成していたのですが、わたしの方の写真撮影などが伸び伸びになってしまい、ようやく今回に約束を果たすことが出来てホッとしています。
  「極意シリーズ」は「その五」までを予定していますが、今年の終わりまでには仕上げたいと思っています。それにDVDの製作・販売や日本国内におけるセミナーの開催などと、やるべきことが多すぎて大変ですが、この二年を全力疾走で走り抜けて行こうと思います。あと空手の歴史の原稿も執筆中ですが、これも完成させなければなりません。

  それと同時に日本国内でのさらなる同好会・支部などの設立も予定しており、日本以外の国々でも同時進行していく予定です。
  皆様のご支援、ご協力をおねがいします。

  なお、東京で多くの友人や生徒に会う機会がありましたが、それは写真コメントをつけてお見せしますので、チョッと時間をください。

  上へつづく

  2010年4月4日

帰国日記 2


  まず甥の長崎での結婚式の翌日に、故郷の沖縄へ飛びました。着いたその晩は弟とその嫁さんが経営する保育所の新築祝いと、その次男の高校入学を記念して、そしてわたしの帰郷に合わせて親族一同が集まってくれました。月曜日の夜というのに、わざわざ集まってくださった皆様、「アリガトウございました」。

  その翌日は本島北部の本部(モトブ)から上地英毅くんが車を飛ばして、ご長男を連れて南部にある那覇市へ駆けつけて会いに来てくれました(翌日は休みを取ったそうです=感謝)。
  彼は幼い頃から故郷で沖縄拳法を修行しており、アメリカのユタ州で無想会主催のUSオープンで二連覇したほどの豪の者です。当時は留学中の貧乏学生の時ですから、大会で優勝した賞金で当時の婚約者(今の奥様)に結婚指輪を買うことが出来たというほほえましい秘話を打ち明けてくれました。

  わたしの執筆中の「沖縄空手の歴史(仮題)」に必要な、沖縄拳法関連の資料もわざわざ持参してくれて、感謝に堪えません。那覇の焼肉屋で、美味しい夕飯をご馳走になりました。彼は今も空手を修行すると同時に、生徒にも指導している身ですから空手の話しになると身振り手振りが入り、時間を忘れてしまう程の楽しいひと時を過ごしました。
  でも、ここでチョッと失敗! なんと焼肉の美味しさと量に圧倒されて、写真を撮るのを忘れてしまったのです(ゴメンなさい。次は忘れません)。

  さて東京です。
  ホテルを予約する予定だったのですが、急遽変更してここは小柳明久くんの家に滞在することになりました(アリガトウ!)。この小柳くんはもう二十年ほど前にユタ州の高校へ編入入学して、無想会の道場でも修業し黒帯を取った人物です。
  久しぶりに会う彼は、二児の良きパパ。
  もう二十年ですからねぇ・・・!! 
   彼のご長男の駿くんと会話していて、わ
たしも歳を取ったものだと実感します。しか
し良きパパ、良き夫であると同時にまだま
だ闘う人間でもあり、第二十回東都空手
道選手権大会の一般軽量級で見事優勝
したバリバリの現役。今回も大会を2週間
後に控えて、長い時は一日五時間も道場
で練習するというほどです。

  彼が無想会に在籍していたときはフルコンや硬式の大会で全米では勿論、世界的な大会でも優勝、入賞した優秀な選手たちが大会出場、優勝を目指して必死で頑張っていた時期なので、空手とは必死でやるものだという良い思いを持続することが出来ているのだと思います。
  
  奥様の江身さんも、小柳くんの大会出場の際にはビデオカメラを回しながらサポートするということで、これからも素晴らしい家庭を守りながら精進して欲しいと思います。
  小柳くん、今度の大会でも頑張ってね!  

  前記した福昌堂の特集撮影が終わった翌日は、岡村翼くんと小平祐亮くんと会います。昨日の撮影の後の飲み会の酔いがまだ少し残っていたのですが、小平くんはわざわざわたしと東京で会うためだけで北海道から今日飛んできてくれたのです。天候の影響で飛行機の到着が少し遅れたのですが、羽田から池袋のホテルに直行してくれました。有り難さで涙がこぼれそう・・・。
  でも彼に言わせれば、「アメリカに行
くより楽ですから」。
  これが、彼の真骨頂! 
  中国、韓国そしてアメリカと、スッー
と自分で行ってしまう行動力と、目標を
決めると必ず貫徹してしまう意思の強さ
があるとわたしは見ています。
  彼の朋友である札幌同好会の副代
表の大山くんは今回は会えませんでし
たが、なんとこの大山くんもこの7月の
わたしのカナダのセミナーに行きたいとのこと・・・この二人、嬉しいけど余り無理しちゃ駄目だよ。

  ユタ大学の在学中に無想会に入門して茶色帯まで習得した岡村くんは、パート2の製作の時に写真撮影のモデルも務めてくれた人物です。
  彼が茶色帯審査の時の組み手は壮絶と言うか、なんと言うか・・・。重量級の大会で優勝した直後の初段の黒帯が弐段を取るために、二十人組み手で全員をバッタ・バッタとなぎ倒していた時に相手をしたのですから、もう大変でした(まあ、弐段を受けた人間の必死さも理解できますが)。今は仕事のことやらで大変そうですが、落ち着いたら関東で無想会の同好会を開設してくださいね。
  アッ! 彼は剣道も弐段なので、彼の剣と空手の相違についての見解は非常に面白いです。

  楽しい昼食が終わって、今度は喫茶店で美味しいケーキを食べて再び会話に夢中。アメリカで甘ったるいケーキにヘキヘキしているわたしは、日本に帰ってきたときにイチゴのショート・ケーキを食べるのが一つの恒例にようになっています。昨日は酒をたらふく飲んで今度はケーキと、通常ならば頭をひねるような趣向ですが、そこは余り詮索しないでください。
  でも、ダイエット中ということは一体どうなったのか?

  その後に二人と別れて神田の古本街へ直行、6時か6時半には古本屋が閉まってしまうのです。だから東京に慣れないわたしは池袋から必死でJRと地下鉄を乗り継ぎ、どうにか間に合って目指す本二冊を購入、辛うじてセーフ! この本の購入と、長崎で姉に連れて行ってもらった本屋での本の購入と合わせて、一応今回のぞんでいた本の購入は全て完了。財布は空になったけど、心はウキウキという気持ちです。
  
  しかし、小柳くんの奥様から借していただいていた傘を本屋に忘れてしまうというポカ! どうも昨日の撮影が今回の旅の一番のメインだったので、それが無事に終わったので心に隙が出来たようです(あるいは、タンに昨日の酒が残っていただけ・・・)。

  翌日は、正午から国際ジャーナリストの河合洋一郎氏と新宿でお会いして昼食をご馳走になります。東口にあるカニ料理のレストランですが、美味しく、さらにくつろげるので氏と日本でお会いするごとに恒例のように連れて行ってもらっています、
  雑誌や本などでも有名な河合氏とはもう二十年以上のお付き合いで、極真空手を高校時代から修行して高校の空手クラブも創設し、アイダホ州の大学でも空手を指導していた氏とは空手のみならず、小説や国際政治などの面でもわたしが啓蒙を受けている人物です。無想会空手の、組織としての発展にもご教授を頂いています。

  河合氏はアメリカの大学を卒業後にジャーナリストとして軍事、政治、諜報面での取材で世界中を駆け回っており、
一時期は東京からワシントンDCへ取材の
ために二ヶ月に一度は飛ぶという生活で
したし、動乱のイラクへも直接出向いて取
材している人物です。
    氏の裏話は記事になっているものより
数倍も面白い(勿論、記事も面白いですが、
書けない部分がもっと面白いのは何処の
世界でも同じです)ので、常に興味津々で
聞いています。
  いまはお仕事の都合でアメリカには御
出でになりませんが、またアメリカに来ていただいて拙宅で夜の更けるまでお話ししたいと痛感しています。

  河合氏に見送られて西口のヒルトン・ホテル行きのリムジン・バスに乗り込み、小柳くんご一家との晩餐会。ここで駿くんの、デザートのスイカの食べっぷりにビックリ! わたしも小さい頃に、スイカが大好きだったのです。でも夜スイカを食べ過ぎて、オネショをしちゃったのも思いだします。












  翌日早く、池袋から成田エックスプレスで空港まで・・・。購入した本が多量で、手荷物で預けると超過料金を取られてしまうので機内持ち込みにするのですが、それが重いの何の・・・!! 無事にユタ州の我が家について、後は寝るのみ。留守の最中の道場は、黒帯の連中に任せてあるのでまぁ大丈夫かと・・・。

  以上が、先日の日本滞在の大まかな部分です。なんか自分で書いていて、日本に行って飯を食っていただけじゃないか? とも思いますが、昔からの友人や生徒に会えて本当に楽しい旅行でした。皆様ありがとう!
  これからさらに日本での本、DVD制作・販売、セミナー開催、同好会・支部設立などと多くの事柄をこなして行かなければなりませんが、もし出来ましたら皆様のいっそうのご支援、ご協力をお願い申し上げます。

  じつは上記の方々以外にも、旧知の森くんや児童部の生徒であったトビヤス君のお父様のカイ・マーティンス教授などともお会いするかもしれなかったのですが、わたしの方の忙しさと連絡不備で今回は駄目でした(ゴメンナサイ!)。次回は、ぜひお会いしたいと思っています。

 2010年4月9日
駿くん(5歳です)
私、小平氏、岡村氏
 河合氏とご一緒に
駿くんとお母様の江身さん          小柳家の皆様とご一緒に

古武道

  昨年末の黒帯審査が終わったあたりから、沖縄古武道のひとつである棒術を上級者に指導し始めました。

  じつはわたしは、沖縄で古武道の棒や釵などの形は一応は習得しています。無想会では、以前は古武道も正式に教えていました。でもそれはわたしが以前やっていた素手の形と同じく、見得栄えの良さを得るためのものでしか無かったのです。ナイファンチの習得を目指した段階で、それらの古武道も修行・指導するのを止めました。止めたというよりも、「捨てた」という言葉が適当なほどに遠ざかっていました。

  当時の自分自身は、従来の身体操作では武器が実践では使えないと思っていました。思っていたというより、確信としてもっていました。素手の形と同じく演武用の武器術は映画の殺陣や演武会、または形の試合で幾らでも見ることがあります。
  それらの空手や古武道の形や身体操作はもう皆さんもご承知の通り、見得を切る動作でしかなく、ストップ・アンド・ゴー、そしてまたストップ・アンド・ゴーという、まったく武術としての身体操作からかけ離れたものになっています。そんな形を学ぶよりは、素人が死ぬ気でメチャクチャに武器を振り回した方が実践ではズッと有効だと思っています。そして再び皆さんもご承知の通りに、これは素手の空手の形にも当てはまる事柄です。

  棒や釵などは道具として素手と比較すれば断然に硬いし、そして長いから素手の相手には当然のごとく有利になります。でもそれは当たり前のことであって、野球のバットであろうが道端の石ころであろうがそれを使用すれば素手より勝ります。日本刀などの刃物ならば、もっとその有利さは際立ってきます。武器を持っている人間がそれをメチャクチャに振り回せば、相手は怖がって入ってはいけません。

  しかし矛盾するようですが、もし武器をメチャクチャに振り回す相手に対しても、ハッキリ言ってフルコンや硬式空手の試合をバンバン行なっていた時は、刃物ならイザ知らず、棒など(ヌンチャクも?)は身体を固めて、金的や顔面(頭部を含む)などの急所をカバーして入っていけばどうにかなるとも確信していました。

  それは今まで見た、そして自分で行なってもいた棒やヌンチャクの操作にスピード、威力ともに殺傷能力を感じることが無かったからです。それ以上に武器の操作をおこなう身体操作自体が、素人と同じもの、あるいはもっと様式化してしまった使い物にならない身体で武器を使っているのですから・・・。

  さらに言えば、自分が習得した棒などを持っていても、乱戦になったらそれを捨てて素手の方が身軽で相手に有効に使えるとも知っていました。棒などの武器が足手まといになってしまって、自由闊達に動けないことが分かっていたからです。
  すなわち沖縄古武道におけるスピード、破壊力などの、武器としての必要絶対条件に対しておおいなる疑問があったのです。

  これを記すことは沖縄の人間としてやや勇気のいることですが、わたし個人としては形は使えなければ捨てたら良いとも思っています。わたしは形が上手くなるために空手をやっているのでは無く、強くなるために空手をやっているからです。そして形が強くなるために無用であるならば、あるいは有害であるならば捨てるべきだとも現在も思っています。

  わたしは元来がチャランポランでいい加減な人間ですが、そのわたしでさえ限られた一生の中で無益なもの、有害であるもに時間をつぶすなどという暇は無いという強い気持ちがあります。あるいは、いい加減でチャランポランであるからこそ、余計にその気持ちが強いのかもしれません。
  いずれにしろ結論を簡潔に記してみれば、従来のわたしの空手の修行において素手の形、そして古武道の形も時間の無駄でしかなかったのです。
    
     武器術としての沖縄古武道の存在意義にわずかな光明が見えてきたのは、ナイファンチの形を修行する過程で沖縄古伝の空手における身体操作の精密さに気がつき始めたころです。「この身体操作で武器を使えば、あるいは行けるのでは・・・?!」という思いが芽生えてきました。

  その思いを増幅するカタチになったのが、カルフォルニア在の大城利弘師範の山根流棒術の演武を見たときです。大城師範の演武を拝見したときに正直に思ったのは「自分の感覚に間違いはなかった!」という安堵と、これほどの術をまだ保って修行していた流派と人物が存在していたことへの感動です。

  わたしが沖縄での修行時代には、すでに山根流という凄い棒術があったが、それは実質上(すなわち武術として)は失伝している。という認識が空手を修行する人間たちの間にはあったからです。

  しかし自分の感想とは逆に、その時に棒を捨てる覚悟をしました。

  それはこれほどの技術を習得するには、生半可な覚悟では絶対に無理だというこをと認識するだけの常識が自分にはあったからです。当時、わたしの修行は、ナイファンチの形で手が一杯でした。それでさえ、一日6時間ほどの自己鍛錬をしなければなりません。その鍛錬に加えてナイファンチの歴史的、社会的変化、身体の構造などもすべて個人の力で出来る限界まで調べつくしました。

  しかし社会的にも中軸になる中年に差し掛かる人間にとって、毎日6時間の修行(+α)を自分に課せることは人生の破滅を招きます。自分の人生を破滅に向かわせるのは他人に迷惑さえかけなければ自己の責任で構いませんが、それに加えて新たに武術としての棒術などを修行してしまえば、自分の中で収拾がつかなくなってどちらも駄目になると分かっていたからです。

  いまから考えてみても、それは正しい判断だったと思います(わたしでも、偶には正しい判断をするのです!)

  棒を再び手にしてのは、ナイファンチの形を自分なりに解明できたと思った時期からです。そのころからナイファンチの理論にそって自分だけでチョコチョコと棒をやったり釵を振ったりしており、それを生徒に突きを理解させる時に「突きの時のこの動作は、棒のこの操作の時の身体操作と同じだ」などと説明する時に、チョコと見せることもありました。素手の時より道具を使った方が、動作が必然的に大きくなるために生徒にとっては理解しやすい時があるからです。
  
  つづく
  2010年4月17日

Tea、Clothe、そしてSqueeze (古武道 2)

  生徒に素手の技を説明する際に沖縄古武道の棒や釵(サイ)を使用して説明すると、動作が必然的に大きくならざる得ないために視覚に捕らえやすく、説明に理解を得やすいので除々に棒などで説明していました。

  それから除々に、生徒から古武道を教えて欲しいという要請が(遠慮がちに)興ってきます。

  わたしは前記したようにチャランポランな人間で、ある程度フランクで人付き合いの上手いところもある人間です。自分がチャランポランだから、相手も入って気安いのだろうと勝手に納得しています。
  
  ただ空手の修行・指導に関しては妥協しないという厄介な性格だとは生徒は知ってますから、わたしが納得しない限り教えないだろと理解していたようです。そのために黒帯の連中が機会があるごとに、遠まわしでこちらにその意向を伝えるだけでした。そこは鈍感なわたしでも、言わんとしていることは理解していました。

  わたしの目標とする指導方法とは、3年でその原理をすべて理解させ、基本的な身体操作がマスターできる方法です。

  自分のナイファンチを修行した経験からも理解していますが、人間がすべてを投げ捨て、そして寝食を忘れて死ぬ気で一つのことに打ち込むことが出来る期間とは、3年前後だと思います。それ以上かかってしまうと、心身ともに疲れ果ててしまい、先細りになる。あるいは、惰性に陥ってしまうのです。

  私事で恐縮ですが才能の無いわたしのような人間は、ナイファンチの奥義を習得するために5年ほどかかりました。それは才能の乏しさと同時に、指導してくれる人間も無く、手探りで自分ひとりで修行して居たからでもあるということもあるでしょう。でも最後の1、2年は本当に心身ともにボロボロで、だれか空手において尊敬できる人物に「ホラ、あと十年ほど頑張れ!」などと言われたら、絶対に挫折していたと思います。

  その集中できる3年の間に、基礎的な身体操作と理念を完璧に理解・習得させてしまえば、後は本人の才能とやる気だけです。

  言葉を代えていえば、この三年の間とはすべて指導者の理念の高さ、教授体系の高さ、そして深さに依存することであり、指導者の優劣がもろに出る部分でもあります。

  極端にいえば教わる側は、学ぶ熱意だけあれば良いのです。

  この三年の後に再び3、4年かけて応用や変化を学び、多くの人間を相手に適応出来る方法を学びます。その後の3年ほどで自分の中に理念を確立して、不動のものとすれば良いだけの話しです。これが武道の「守破離」であり、昔の剣術なども十年ほどで免許皆伝です。

  これはハッキリ言いますが、体系だった教授方法の下で学んだ人間で、二十年、三十年も同じレベルの修行をやっている人間は惰性でやっているだけです。または道場における礼儀や人間関係などの煩雑な部分のみに精通してしまって、修行の本質を見失ってしまった人間です。逆にいえば、この最初の三年で徹底的に自分を鍛え上げることの出来た人間が修行を続ければ、相当な高嶺に達することが出来ると思います。
  
  即物的な言い方で申し訳ないですが、大会で出場して上位へ行く人間などは、この三年前後である程度の実績を上げるものです。武道として、あるいは武術としての空手は、スポーツとして大会に出る空手とは違うという意見もあるかもしれません。しかし両方やったわたしは明言しますが、人間の能力には武術もスポーツも変わりがありません。

  さて古武道のはなしに戻りますが、一応無想会の指導教程が確立してその成果を見ることが出来た時点で、生徒が素手のナイファンチの形の理念と身体操作を理解し行なうことが出来たら、古武道の指導もどうにかなるだろうと思っていました(わたしの、チャランポランな部分ですね?!)。

  チャランポランと記しましたが、武道、武術だけでは無く、全ての理念・技術などは基本を徹底的に理解・習得さえすれば後は楽なのです。ただこの基本の習得とは、心身すべてで、そのすべてを理解するというレベルでなければなりません。大言壮語すれば、基本的には自分の人生すべて、この理念だけで行けるというレベルなのです。門外漢ですが、禅の修業方法もこれと同じなのではないか? と思っています。

  そして武術としての沖縄古武道の技術とは、すべてがナイファンチの理念で構成されています。っと言うか、ナイファンチ自体が日本の剣の操作ですし、優れた武術としての身体操作はナイファンチの理念以外には在り得ませんから・・・・。
  
  ここで・・・と記したのは、空手が一般社会に公開される時期において、本場の沖縄空手でさえこの理念の存在価値を取り違えてしまい、まったく違った身体理念・操作を取り入れたという、重大な間違いを冒してしまったからです。

  現代空手の混乱は、近代の西洋スポーツ理論の盲目的な導入と同時に、この沖縄空手の人々が冒した間違いが原因でもあります。この事柄に関しては現存の流会派の大部分に関わるものであり、差し障りもありますが、いつかチャンとしたカタチで発表します。

  ただ素手の空手と古武道の棒が違うのは、「切り手」の理念を片手では無く両手で行なうということです。でもこれも武術には「茶巾絞り」という熟語(?)があるほど確立された教授法がありますので、それを徹底するだけです。

  余談ですが「茶巾絞り」は、我が道場ではわたしの下手な英語訳で、冗談半分で「Tea Clothe Squeeze」、文字通り「お茶、布、絞り」と直訳していますが、動作を伴なって説明すれば一応は通じています。

  これがもっと体系化していけば、熟語もすべて格調ある(?)英語で訳さなければならなくなるのでしょうが、現場はどこでもこんなもんでしょう。ともかく武術は出来なければ、使えなければ、そして教えることが出来なければ話しにならないからです。

  沖縄空手のその大部分が間違って伝えられたのは、この出来た、使えた、教えることが出来た(現場の)人間たちが、武術としての空手を一般に公開して言語にして伝える時期に、すでにその多くが他界していた。あるいは世から退いていたことにも、ひとつ原因があるのです。

  道場での稽古では、今はまだ棒をいかに最高スピードで振るかの基本動作だけです。

  基本的には、すべて空気を切れと教えています。「ビュン!」と金属的な音がするほどのスピードが無ければ、実践では棒などは手足のジャマになるだけで使えないからです。

  これがある程度できるようになれば、棒の形は色々ありますが、そのうちでわたしが修行したものから一つずつゆっくりと教えていく心算です。棒さえできれば、他の古武道である釵やヌンチャクなどに取り組む時に楽ですから・・・(これはすべての基本も同じですね)。 素手の形、沖縄古武道の形の身体操作はまったく同じものであり、それは日本武道の剣の操作ともまったく同じです。
 
  生徒も教える方のわたしも、その身体操作の基本を徹底的に学び習得させる、ナイファンチの形の有り難さをかみ締めることになります。
    
  2010年4月18日

演武

  土曜日の午後に演武を行いました。

  「日本祭り」というお祭りがソルトレイクシティの中心地で在り、日本人の仏教のお寺とキリスト教の建物が両方にある通りを交通止めにして、東西に二つ舞台を作って行います。3時ごろから無想会の出演でしたので1時ころに行ったのですが、人だかりで身動きが出来ないほど盛況でした。
  もともとソルト・レイクには日本人街がありましたが、再開発のために消滅してしまいました。その地の後に、これらのお寺や教会は建っています。

  正直に告白しますが、じつはわたし個人としてはまだ演武会などはあまり乗り気では無いのです。十年以上もまえに大きな大会を年に二回も開催していた当時は、生徒獲得のためもあり、大会の演武や他での演武会を年に何回も行なっていました。

  当時は演武用の練習さえ生徒を相手に行なっており、棒とトンファーの交手をしたり、試し割りもバットをまとめて割ったり、頭突きで二インチの厚さの板を五枚重ねて割ったりしていました(もともと悪い頭が、もっと悪くなったのはその時の後遺症だと自分は信じています。以前は、ここまでは悪くはなかったのですから・・・)。

  これらのお祭りや、演武会では観客の注目を集めるために視覚、聴覚に訴えることが必要絶対条件です。そのためにこの日本祭りでも、太鼓や踊りなどの集団が入れ替わりで出演します。

  日本祭りというと日本の伝統芸能などを披露する場所などという、歳いったわたしなどは思ってしまいます。 でも現在のアメリカの若い連中には、日本と言えばアニメなのです。人だかりで賑わう通りは、「なんじゃー、これは??」と思うコスプレ・パーティー化している部分もあり、それもゲンナリする原因の一つでした。
  なんせ、レッサーパンダからマッハ・ゴーゴーゴまで出てきますから、若い弟子に言わせると、「OTAKU=オタク」というチャンとした現代英語さえあると言います。

  もう目が点・・・。
  
  われわれの演武も、派手な動作でやらなければ観客の興味を引くことが適いません。そしてこの派手さが、じつは武術としての古伝の空手にとっては命取りになるのです。
  対峙する相手から見えない動きということは、観客が見えるはずが無いのです。ならばそれを見せるために動作を大きくして、動きを止めて見得を切る以外にありません。かつ、不必要に大きく派手な気合も不可欠になりますし、服装もきらびやかにして、髪型から顔の造作も注意しなければならないでしょう。 

  これでは現在多くの道場で練習されている形の存在意義や、形の試合が含有する欠点と、まったく同じものとなります。

  わたし個人としてみれば、これらの動きをしてしまうと、いままで一体ナノのために武術的な身体操作を習得しようと悪戦苦闘していたかの? そのような使えない動きに嫌気がさしたからこそ、自分は全てを投げ捨てて修行をやり直したのではないのか・・・? という自己疑問に陥ることになるのです。その自己疑問が、自己嫌悪に行き着くのも自然の成り行きです。

  そのために、この十年ほどは時間が無い、生徒が集まらないということを言い訳に、よほど(義理など・・・)のことが無い限り演武会などは遠慮していたました。
  今年も生徒に出演することの出来る人間だけ集まってくれ、と全然事前の練習などもせずに、出たとこ勝負でやりました。
  でも、これじゃあまりにも生徒が可哀想なので、来年からチョト根性入れなおしてやってみようかと思っています。

  2010年4月24日