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沖縄空手道の歴史(琉球王国時代の武の検証)

THE HISTORY OF OKINAWAN KARATE-DO
(The verification of martial arts in the Ryukyu Kingdom era of Okinawa)


 本ページは現代空手の根源である、琉球王国時代に武術として伝承された沖縄空手の歴史の記載です。
 このページの記述の元となったものは、弊会・会長の新垣清・最高師範著の「沖縄空手道の歴史(琉球王国時代の武の検証)」(原書房)です。
 関係者のご好意で、ダイジェスト版のカタチで本ホームペイジを記述することが可能になりました。

 さらなる詳細は、本書をご覧いただきたいと思っています。
 

第一章

琉球王国

 日本空手道の父としても良い船越義珍によって、「海南神技是空拳(海南の神技、これ空拳)」と謳われた武術・空手。
  それは琉球王国と呼ばれていた沖縄において、中国武術と日本武術がミックスされ、日本本土に移入することによって武道としての整合を果たし、世界に飛躍した身体文化だ。
本書においては、この武術として伝承された空手を通して、主に琉球王国時代における沖縄の武のあり方を検証すると同時に、空手にまつわる多くの歴史上の疑問点を解明していこうとしている。

 まず沖縄とは、あるいは琉球とは日本のどこに位置するのか、そしてその歴史とはいかなるものかを簡単に記していこう。
  現在は日本国に帰属して沖縄県と呼ばれる地域は、日本が近代化を果たす明治維新以前は、琉球王国と呼ばれる独自の政治機構を保持する独立国であった。 
  地理的にこの王国を述べると、九州島からはるか南にあり、細長く南北に延びる琉球列島と呼ばれ地域で、沖縄本島とその周辺にある大小さまざまな島から成り立っている。
 沖縄本島の南部にある首里(シュリ)と呼ばれる地域を琉球王国の国都とし、南西部に位置する港のある商業都市を那覇(ナハ)と呼んだ。その中間に位置するとしてもよい泊(トマリ)と呼ばれる地域があり、字づらから理解できるように港に隣接した地域である。
 これらの地域は、近年に入ってすべて一つに合併されて県都である那覇市となっている。
 王国時代の沖縄では、首里は武士の街、那覇が商人の街、そして泊が港の街であったといってもよい。
 これらの地域以外には、現在の沖縄県では本島北部では最大の都市である、名護(ナゴ)が存在する。この他にも王国時代は人口密集地である南部と北部の名護の間に、中部地区随一の人口を擁した北谷(チャタン)があり、沖縄空手史においても重要な役割を果たした。
 地図を見ても分かるように琉球列島は、東洋文明の要である中国と、その文明の恩恵を受けながらも、独自の文化を作りだしていった日本との間の海域に横たわっている。  
 列島の島々から成り立つ琉球王国は、この二大国と比べると圧倒的に少ない人口、狭い土地から形成されており、これらの条件から見てゼロから独自の文化、文明を作り出すことは困難であり、効率の良いものではなかった。
 しかしこの島国に住む人間たちは、隣接する偉大な国である日本と中国からの文化を、巧みにミックスさせることに非常に優れていた。
 その一例である現在の復元された首里城を見ても分かるように、中国からの使者を歓待する場所である北殿と、日本の使者を接待する南殿とは建物の色からすべて違っている。  
 それに加えて日本と中国の使者を歓迎するために、日中料理の各々に使うために、材料である植物(野菜や果物)を特別に栽培したとまで言われている。
 端的に述べれば、この混交こそが琉球・沖縄文化の特徴といえるだろう。
 これは中国と日本との交流だけではなく、琉球王府の歴代外交文書を集めた「歴代宝案」には十五から十六世紀、いわゆる琉球の大交易時代に暹羅(シャム)、安南(ベトナム)、マレー半島にあった満剌加(マラッカ)・仏太泥(バタニ)、爪哇(ジャワ)・蘇門答剌(スマトラ)・三仏斉(パレンバン)・巡達(スン)、そしてタイ国のアユタヤ王朝などの、真南蛮とよばれた東南アジアの諸国と頻繁に交易を行っている。
 しかしこれらの交易は琉球の国内が統一され、強固な政府を確立した段階で海外へ雄飛して行ったのであり、それ以前には世界中の多くの国々の歴史と同じように、あるいは日本の戦国時代と同じく、沖縄本島を三分した勢力が覇権を競って戦乱に明け暮れた歴史をもつ。
 この歴史をすこし詳しく説明してみるが、沖縄で実在した裏付けのある統一的な王国が誕生したのは、源為朝伝説がある尊敦(ソントン)の時代からだ。なおこの尊敦の謚(オクリナ)が、有名な舜天(シュンテン)である。
 しかしこの王統は、三代目の義本(ギホン)で終わってしまう。
 つぎの王統は、英祖(エイソ)が祖となり五代・西威(セイイ)で終わる。この王統の祖である英祖は、琉球初の経界をおこなったことで有名である。経界とは検地のことであり、これによって住民に一定の税を課し国の財政を豊かにすると同時に、国家規模での事業計画を推しすすめることが可能になったはずだ。
 英祖の時期に本島近隣の離島から入貢が始まりだし、かつ日本本土から仏僧が渡ってきて仏教を普及しだす。
 しかし英祖王統の四代目・玉城(タマシロ=タマグスク)が政治を省みなかったために王の権威が弱まり、島内中部の英祖王統と合わせて北山(ホクザン)、中山(チュウザン)、そして南山(ナンザン)と分立する。
 これらを合わせて、三山と呼ぶときもある。
 これは日本本土において室町時代に幕府と言うものが有りながら、諸国の群雄が各々の領地で独立し、自治を行なっていたのと同じであるとしても良いかもしれない。
 その後に、察度(サット)王が王権を樹立した。
 察渡王統の歴史上の最大の功績は、中国へ朝貢を始めたことにある。
 この時代においての中国王朝は、朱元璋(シュ・ゲンショウ、1328-1398)の興した明(ミン)だ。
 察渡の長子であった武寧(ブネイ)は1396年に四十一歳で即位し、その時に琉球で初めて中国皇帝から冊封(サッポウ)を受ける。
 察渡王統の時代に冊封を受けたということは、南海の琉球王国が世界的な規模において、中国文明という人類史上有数な文明の一隅に位置することが可能になった、ということでもあった。
 この時代には冊封以外にも真南蛮と呼ばれた東南アジア、および朝鮮との貿易を開拓し、初めて中国の最高教育機関である明の国子監に沖縄人留学生を送り込むこととなる。
 明の国子監は南京と北京に存在するが、この時期までは明王朝の国都は南京であるために、この国子監は南京に在ったものである。
 しかしこの察渡の王統も、僅か二代で終ってしまう。年数にしてみれば、五十六年の治世でしかない。
 その間も前記した島内を三分する勢力は勃興し続け、察渡の中山のみならず、他の二山である北、南山も時の中国王朝である明(ミン)に各自で入貢を始めた。
 その後も続々と明(中国)の使者が訪れ、沖縄からも多くの人間が、返礼や入貢のために海を渡っていく。
 明から派遣された中国人使者たちの中には沖縄に留まり、ある者は中山国の摂政を務めるなど、当時の最先端の文化、文明を誇る中国文明を琉球の地で活用した。
 そして1534年(嘉靖十三・天文三年)に、現在の中国南部・福健省辺りの閩国の三十六姓が、察渡が王として君臨する中山国に移入された。
 この三十六姓が集団で移入された久米村は、唐栄や朱明府とも称されることになり、琉球に移入してきたこれらの中国人とその子孫が、空手の歴史を語るうえでの一つの重要な事柄になる。
 そのために、本書にたびたび登場すると同時に、さらに「久米の地とその手」の章を設けて詳しく説明する。
 三山の中でも中国から多くの支援を仰いだ中山王であったが、その中山王であった武寧を尚巴志(ショウ・ハッシ)が討って、自らの父親である尚思紹(ショウ・シショウ)を中山王として奉じた。
 この息子の巴志は、続いて南山と北山を滅ぼして沖縄全土を統一し、父親である尚思紹を国王として戴冠させる。
 すこし複雑になるが後々の理解のためとして明確にしておくが、中山王の武寧を討ち取った後に尚思紹が即位しても、中国側には武寧の世子としてそのまま進貢を行っている。
 易姓革命の思想のある中国に、琉球の王が変わったのを説明するのは比較的に容易であったはずだが、混乱期(戦乱期)であったために煩雑さを避けたと思われる。
 そのために武寧から、第二尚氏で琉球王国最後の王となる尚泰まで、中国側はすべて琉球国中山王ということで戴冠させている。
 これが第一さらに第二尚氏の、始まりである。
 なお、息子の巴志自身は二代目の国王となる。この第一尚氏は、第七代の尚徳王の崩御後に政変で権力を失うまで続く。
 政変と記したが、今の言葉にすれば(武力)クーデターという言葉が適切なはずだ。
 このクーデターを興したのが金丸という人物で、その成功の暁に尚円と名乗って王位につく。この金丸の王統を、第二尚氏という。
 これは革命という国家体制の変更ではなく、その社会構造(この場合には王政)には変化をすることなく、権力が移動したものである。
 しかしその結果は中国の易姓革命の思想に則ったのであろうか、第一尚氏の子孫の行方は、権力の中核から全てというほど消え去ってしまう。
 第一尚氏の最後の王である尚徳王の長男(佐敷王子)と次男(浦添王子)は殺害され、わずかに三男(後に屋比久大屋子を名乗る)が難を逃れて、後に明氏亀屋家を興したという言い伝えがある。
 これらの出来事は、滅ぼされた第一尚氏が権力を握る以前の、すべての王統が滅んだ時と同じものであったはずだ。なお空手関係としては、この明氏亀屋家の系統に花城長茂がいる。
 しかし中国側への要請では同じ中山王統が続くということになり、政変後に王位についた尚円(金丸)は、滅ぼされた尚徳の息子であるという形式になる。姓も、そのまま「尚」氏を使用している。
 簡単に記すると、ここまでが空手が誕生した場所である沖縄の王国時代の歴史である。
 成立当時の琉球王国とは、中国、日本との狭間において両者との交流を盛んに行なってはいるが、軍事的、政治的に独立した一つの国としての機能を十分に持っていた。
 それと同時に記さなければならないのは、当時の他の国々と同じく前王朝に代わって新しい王朝を打ち立てる、あるいは政変で政権を握るのは、すべてと言って良いほど武力闘争の結果である。
 統一政権が誕生した初期の琉球王国は、軍事的にも非常に強固であり、日本史上においても屈強さで名高い薩摩の南下に対抗して喜界島などを占領し、自らの防衛線の北限としている。
 その軍事的均衡が破れたのは、1609年に行なわれた薩摩藩の琉球王国への侵攻である。
 この侵攻によって王国は敗れ、国王である尚寧は薩摩に人質の身分で二年滞在を余儀なくされている。以後の琉球王国は薩摩の属国のような関係を強いられ、国防の要である軍事力を奪われてしまう。
 さらに幕末においては、明治維新を興した雄藩の一つである薩摩藩の政治的影響を大きく受けることになり、多くの混乱を生み出している。
 この幕末期の政治的混乱は、当時の為政者階級であった首里の武士たちの行動に多大な影響を与えると同時、本書の主題である空手の歴史を作りだす要因ともなっている。
 この琉球王国の深層を流れる薩摩の政治支配は、明治期になって琉球王国が琉球藩となるまで存続した。
 琉球文化を一言で表せば、日本と中国の折衷文化の極致にあったと言ってもよいと、前記した。
 薩摩藩の侵攻に敗れ、擬似独立国の形態において中国との交易を続けてなければならなかった時期から、明治維新後に王国が崩壊するまでの期間は、特にこの折衷文化が深まっていったはずだ。
 本来のオリジナル性というものは、多くの異なる民族、文化が混合する中からそれらの長・短所を選別して、長所を伸ばし、短所を矯正した上にひときわレベルの違ったものが生まれてくることである。
 世界の格闘技の歴史から見て、空手の誕生と発展は、沖縄文化のもつこの本来のオリジナルな面が発揮された結果だといっても過言ではない。
 だが折衷とは政治的に見てみると、一方の顔を立てつつ、他方の顔色をも伺いながら生きて行くという綱渡り的な巧妙さも要求される。
 薩摩藩の侵攻を許して、属国の立場に甘んじなければならなかった琉球王国に要求されたのは、この綱渡りの巧妙さであっただろう。
 そのために沖縄のエスタブリッシュメント階級で、国都の首里に住む士族階級の人間たちにとっては、中国と日本の狭間において自らの国を生存させるために、多くの困難な場面があったと想像される。
 琉球王国の歴史を語る上で、軍事的な記録を探索することが非常に困難なことや、身体文化の一つである空手という武術を語る上で、確固たる口碑や紙碑の絶対的な不足の一因は、沖縄がこのような政治的に微妙な位置にあったことを抜きにしては語れない。

つづく